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遺訓と遺教

   遺訓と遺教
       (平成26年2月16日、両先生を偲ぶ会)
                               地主正範
 みなさんは既にご承知のように、致道館文化振興会議の細井さんをはじめ、博物館のみなさん、それに鶴岡市の教育委員会のみなさんたちが、「親子で楽しむ庄内論語」という本を刊行して、しかもそれを市内の小中学校に配布し、あたかも、学校の教科書に準ずるかのように読まれている。これは、まったく素晴らしいことで、当事者のみなさん方は鶴岡というまちを、ゆくゆくは孔子が理想とした「仁」の道、仁は分解すれば孝悌忠信となりますが、仁の道が行われるまちにしよう、そういう遠大な目標をもっておられると思うのであります。実に尊いことであります。
 鶴岡のこの快挙を真似してかどうか知りませんが、文科省でも道徳を学校の正規の課目にしようとしているようですが、そうなっても、鶴岡での「親子で楽しむ庄内論語」は是非継続されることを願うものであります。
 評論家の渡部昇一さんは、酒井家の「少年会」で「論語」を素読したそうですが、後年の著書で渡部さんは、「人生は論語に極まる」、人間一生の手本は論語で充分だ、といっていますが、熟読玩味されたことがわかります。
 鶴岡で「親子で楽しむ庄内論語」が発行されてから、いわゆる致道館文化が話題になることが多くなっておりますが、これは徂徠学が「個性尊重」や「自学自習」を重んじたそのことが、現在の学校教育の方針にも叶っている、というような意味で受け止められて、鶴岡では200年前の致道館以来、「個性尊重」「自学自習」を重んじてきた、というような議論が見受けられるように思います。
 実は、いま我々が読んでいる「庄内論語」は、200年前に致道館で読み、解釈された「論語」、つまり、荻生徂徠が読み、荻生徂徠が講釈した「論語」ではありません。ここのところを、是非皆さんにご理解いただきたいと思うのであります。読み方が致道館時代と同じでも、解釈が違っていたり、変化しているのであります。それも大きく変化している。いま我々が読んでいる「庄内論語」は徂徠学ではありません。でほ何かといいますと、「西菅学」とでもいいますか、今日お祭している、西郷と菅の思想を原点とする、読み方、解釈なのであります。だからお祭をする、といってもいい。

 徂徠学と酉菅学とはどうのように違うのか。それを申し上げてみたいと思います。
 いったい人間は、だれでも、徳と才という二つの天性をもって生まれてきておりまして、道徳性が才能より大きい人を君子といい、道徳性が才能より小さい人を小人といって、この二つの天性のほかに、第二の天性ともいうべき習慣をあげて、習慣は、第一の天性を発展・拡充していくための勉強努力を習慣にする、それによって道徳的行為を高め、体力的にも、知能的にも発達していくのであります。
 そこで徂徠学ですが、徂徠は、人の道徳的行為は生まれながらの素質で決まってしまう、特に、道徳性は生まれつきで、勉強努力では絶対変えることができない、としています。これは徂徠学独特のテーゼであります。
 儒教は孔子・孟子の教えですが、儒教で最も尊敬する、神様のような存在を聖人といいます。その聖人の代表として、堯と舜の二人を挙げます。徂徠は、堯も舜も王様として治めた国が、理想的な福利国家であったと。
 そういうすばらしい国作りをした堯も舜も、道徳的に一点の非もない、生まれながらの聖人なのであって、別に特別な勉強をしたわけではない。それなのに、どうして素晴らしい理想国家をつくったか。
 民衆はそれぞれ違った生まれつきを持っているから、それに孔子の仁の思想、つまり親孝行を説いたって、兄弟間の悌を説いたって、上司と部下の忠を説いたって、世間の人々との信頼を説いたって、民衆にそんなことを説いても、生まれつきがそうでなかったら、民衆は変わらないし、国が治まるはずがない、といいます。
 それなら堯舜はどうしたか。人の歩むべき「道」、方法を作った。その「道」とは何か。徂徠は「政治の四術」といっていますが、「礼楽刑政」の四つであります。
 礼というのは、冠婚葬祭の形式から、生活のルール万般、政治制度も含みます。楽は、卑猥な音楽はダメ、クラシックはいい、これは学問がなくても、人情に訴えますから、誰にもわかります。刑は苔杖徒流死(ちじょうずるし)、むち打ちから死刑まで。政は政策です。この四つの枠を作って民衆にはめた。民衆を統治するだけですまない。人は、この四術に熟練することによって、民衆や部下に笑われない人格を得られる。政治の四術は、孝悌忠信よりも上位にある。ここがまた徂徠の独特のところなのですが、孝悌忠信では民衆を治めることができないからだ、としています。

 徂徠学の特徴とされる「個性尊重」は、人の道徳的性は生まれつきで決まって変わらないけれども、才能、知識や技術は、生まれたあとの努力勉強で発達する。だから徂徠は人を評価するときに、道徳的な人格を標準にしないで、何ができるかという能力技術で判断する。それには徂徠の好みもあって、流行の文化であった、詩文、漢詩や文章をつくることに長けた人を重用しました。
 これは致道館にも色濃く導入されて、教師も生徒も詩文に熱中するあまり、道徳のほうが疎かになった。そこで殿様から、「詩文はその人の天分にもよることだから過分な奨励はいけない、もっと学問に励ませるように」というお達しがでました。これはあまり効き目がなかったようで、閉校までの70年間、この伝統が致道館では続きました。
 徂徠学の特徴とされる、もう一方の「自学自習」は、致道館でも奨励されましたが、これは生徒に学問への自発的ヤルキを促しましたが、その後の方向づけを教師が放っていたわけではありません。

 さて、江戸における徂徠学はどうであったか。根本であるべき学問道徳のほうがすっかり手薄になり、弟子たちもそれに染まって、江戸の識者は徂徠のもとに寄ってくる一派を「?弛の士」(たくちの士)締りがなく、礼儀も知らない人たち、と呼んで、「その才を成すに及びてや、ただ文人に過ぎざるのみ」と批判しました。酷い評判です。
 そもそも儒学は、「修己治人」「徳は本なり才は末なり」で、自己の修養を根本とします。たとえば金メダルをとった選手でも、道徳に反した行動をとれば、その人の価値は無に帰してしまいます。
 それなのに、徂徠の一派が?弛の士とまで酷評されて、黙っているわけにはいきません。徂徠の一番弟子であった太宰春台は、かねてから師匠の徂徠に、弟子たちの教育方針のなま温いことを面と向かって進言しましたが、一向に聞いてくれない。そのころから徂徠学は儒学ではなく、詩文学と目されるようになり、徂徠と春台の間も険悪な状態になっていきます。
 あるとき、詩文派の弟子たちが、徂徠を囲んでボタモチかオハギかを食べているところに、春台が突然やって来た。それ隠せ、というので大騒ぎしたあと、口を閉ざして何食わん顔をした、そんな話も伝えられております。徂徠のデタラメ派に対して、春台はマジメ派ともいうべき内紛がありました。春台自身も、真面目な生活態度であったといわれております。

 こうして江戸で内紛をはらんだ徂徠学が致道館に導入されますと、致道館では教師たちが、徂徠に組する放逸派、春台に組する恭敬派と二派を形成して、江戸での対立と同じような対立が持ち込まれました。
 致道館の70年間は、徂徠の放逸派が主導権をにぎりますが、これは時の政治権力と結んだからで、デタラメ派は口のうるさいマジメ派の教師を、遠く鳥海山のふもとに、開拓を名目にして左遷したり、江戸邸の勤務を命じたりしましたから、たとえ不満を抱く教師でも、身の危険を思うと、ものが言えないという空気であったと思われます。中には、学校では徂徠学を講義して、自宅では朱子学を講ずるというような、陽徂陰朱の学者もおりました。
 こういう陰湿な空気に抵抗したのでしょう。ある生徒が、「徂徠がそんなに偉いなら、孔子のお祭りのときに一緒に徂徠を祀ったらどうか」といいましたが、流石にそれは果たせませんでした。
 こういった生徒は、ここにいらっしやる菅実秀、臥牛先生であります。教師でもないのに、これだけのことをいう、学問への深い疑問と、不敵な自信を読みとることができます。

 話は一挙に明治元年に飛びますが、戊申戦争に敗れた庄内藩は、官軍の薩長に兜を脱いだ。これ以後の菅の活躍は、みなさまご承知のとおりで、藩主酒井家とその領民を今日あらしめているのは、菅の活躍によるところが大きかったからであります。が、それだけではなく、菅は庄内の学問を、徂徠学からの過りを救い、正しい庄内学をもたらしたという、文化的にも忘れてはならない存在だと考えるのであります。だからこうして、お祭をするのであります。

 さて、戊申戦争の戦後処理が終わると直ちに、菅は明治元年、人を使わして、島津家と西郷に挨拶をさせています。その使者は西郷にどう言ったか、わかりませんが、西郷が使者に言ったことが記録に残っております。西郷は初対面のその使者に、大久保政府のことを、「いまの政府は錆ついてしまって、油を差したくらいではダメだ、いちど、ガンとぶちこわして、新しいものにせんといかん」といっています。使者は帰って、細大漏らさず菅に報告したでしょうが、菅はこのことによって西郷の人物を推察し、日本が置かれている情勢を掴んだと思います。
 明治五年、菅は西郷が上京するという情報を知ると、すぐさま上京して、西郷を待ちます。そして、初めての対面の場で、これも知る由もありませんが、敗軍に対する処分の軽かったことなどに礼を述べ、敗戦後の荘内藩の復興についても意見を求めたことでしょう。菅は一たびの敗戦に、あきらめてはいない。天皇親政の新時代に、西郷とともに、いかに貢献するか、もうそれを考えていた筈です。
 その挨拶がおわると、菅は、まことに唐突ながら、吾が荘内の藩校では、徂徠学を学び、かくかくしかじかのしだいで確執が止まず、いかにあるべきやに迷っております。ご高見をたまれば、まことに--、とかなんとか、学問のことに言及したのでしよう。
 それに対して西郷は、「学問というものは、堯舜を目的にして、孔子を教師として学ぶものです」、と答えました。くだくだしい問答はいりません、菅はただその一言で、長年、致道館で抱いてきた疑問の塊が一挙に氷解したと、これは菅自身の言葉です。
 菅が学問上の参考にすべき学者を問うたのに、西郷は、朱子、王陽明をあげて、陽明ならば最もよい、徂徠などは気位が低くて、学問などはわからないもので、嫌いだ、と答えております。西郷は青年時代、同士とともに、六七年間、伊東茂右衛門から陽明学を習っています。
 西郷と菅の会見があった後、陽明学のバイブルともいうべき伝習録が、鶴岡の学者や青年たちの間で盛んに読まれるようになったと、黒崎の「庄内日誌」に書いております。

 菅は西郷との初対面のあとの三年後、菅は有為の若手を選んで、共に鹿児島に向かい、二○日間も滞在して、菅自身と青年たちが、直接西郷の教えをうけています。これが後年の「南洲翁遺訓」の編集につながるのであります。
 当時は、いわゆる征韓論によって、西郷が下野し、政府がゴタゴタしていたのですが、鶴岡の熱血青年の中には、戦争になったら西郷を先頭にして攻めこむんだ、などといって、万事、西郷を信頼し、西郷に傾倒していました。
 それから二年後の西南戦争で、西郷が没すると、菅らは、あたかも自分の家に不幸があったかのようにして、西郷を弔っています。西郷への信頼がいかに厚かったかを示すものといえましょう。
 その信頼のあらわれが、「南洲翁遺訓」の編纂であります。これは明治23年ですが、その翌年、西郷の盟友だった副島種臣が鶴岡に来て、鶴岡の学者たちと会衆した際、「鶴岡は、徂徠学ではない。庄内学というべきだ」、といった。これが「庄内学」の呼称の始まりといわれています。
 その後は、菅原兵治先生が、昭和21年、いまの東北振興研修所を設立するときに、当時、酒井家の学問の権威であった加藤省介氏と会談したときにも菅原先生は、庄内の学問は、徂徠学ではない、「庄内学」だといったと、伝えられております。後に菅原先生が、「南洲翁遺訓」は「死に代えた出版だった」といいましたが、まさに、いい得て妙、当時の人たちの心情であったと思われます。

 これほどに、菅をはじめ、鶴岡の学者を振るい立たせた西郷の教え、「堯舜を目的にし、孔子を教師とする」ことの真意を、すこし考えてみたいと思います。
 今日の話の題にしました、「遺訓と遺教」は、もちろん南洲翁遺訓と、臥牛先生遺教のことでありますが、南洲翁遺訓は公刊されて既に著名でありますが、遺教のほうは、百年近く前に酒井家の文會堂から出たものです。その遣教は、菅が西郷からうけた教訓を、咀嚼し風味して、弟子たちに語った青葉の記録です。このようにして、百年前の先輩たちは、西郷と菅の教えを尊重し、後世に伝えようとしたのであります。
 南洲翁遭訓の道義を論じた最初が、みなさんよくご存じの、「道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ」とあります。この一節は、実に西郷精神の真髄というか、原点というか、西郷の言動の総てはここから発していると思われます。
 「道は天地自然のものにして」ときりだしているのは、質問した庄内藩士が、徂徠学では「道」は堯舜が作ったものだされていますが-、といったのかも知れません。徂徠のこの思想は前にいいましたように、「道」は、孝悌忠信は、生まれつきにそれがなければ、人は教えられても強制されても変えられない。だから堯舜は、礼楽刑政という、政治的四術を編み出したというのであります。
 西郷はそうではない。人の心には、生まれつき天から与えられた、孝悌忠信という道徳性が備わっている。万人の心に、それが備わっている。だから人は、天の意志を尊敬して、孝悌忠信を発揮し、人を愛さなければならない。孝悌忠信はすべての人に天性として備わっていると、徂徠の制作説を否定したのであります。
 ここが徂徠と西郷の大きな相違点であります。菅はこれを聞いて、頓悟した。
 ならば、孝悌忠信を発揮するにはどうすべきか。西郷はいいます。人には、孝悌忠信の外にも、沢山の欲望があるが、孝悌忠信という天性の発揮を阻害するような欲望、私欲はこれを捨て去らなければならない。
 天が与えた本性は、みな他人を愛することですから、自分が得になることを優先してはならない。そこで、「身を修する」。身を修するとは、身の汚れ、私欲を洗い落として、天賦の孝悌忠信を発揮することですが、西郷は、「克己を以て終始せよ」といいます。自分の利益を優先しない、「私欲を滅却せよ」というのであります。私欲と公益は違います。私欲を公益に止揚する、これが克己というものでしょう。

 お手元に、「伊藤孝継の南洲翁遺訓」を配布していただきましたが、これは庄内の人で一番最後に西郷と差向いで会見した人ですが、この遺訓は、西郷の精神構造を理解し、実行の励みにするのに、大変貴重な文書です。2行目に、「此の道を明かに我が物とすれば則ち聖人なり」、3行目に「聖人は神にも非ず仏にも非らず人間なり。天理は孝悌忠信のほかなし」、すこし省いて、「この道を明かにするは学問なり」とありますが、明らかにするとは、自分自身が聖人になることであります。菅が西郷との会見のときは、「学問は堯舜を目的にせよ」、聖人になることが学問だといいました。全く同じことを西郷は伊藤にもいっています。
 この資料のここからあとのほうは、西郷が聖人を目標にして学んでいる、西郷自身の工夫というか、勉強の仕方をいったものであろうと思います。西郷は、「誠」とか、「誠一枚」とかとよくいいますが、これは私欲を捨てることに精神を集中する、集中すると天が人にあたえた真理、天理、孝悌忠信がよくみえてくる、そういうことだと思います。

 菅にはたくさんの弟子がいましたが、私が菅の教えをよく理解したと思う人の中に犬塚一貞が居て、犬塚は昭和何年かに、「風味録」という著述をしています。その中に、菅の言葉として、「道を学ぶにも、大禹曾参の必死勉強を師とすべし。果たして大禹曾参の心懸あらんには、その人柄によっては、大禹曾参にも優り、堯にも舜にも成り得らるべきものならん。一時奮発するときは何も聖人に異なることなし。唯聖人は必死勉強終身息まざるものなりとおおせらる」とあります。
 大禹は聖人、曾参は、孔子の没後にその思想を伝えた人ですが、こういう人のような意気込みで勉強すれば、大禹曾参にもなれるし、堯舜のような聖人、それをも超えるような人にもなれる。
 このことこそが、「酉菅学」の原点中の原点であり、「庄内学」の原点であります。徂徠学とは全く次元を異にするところが、おわかりでありましょう。
 このように、学問が一変したと鶴岡の学者が認識した後も、徂徠学的発想で南洲翁遺訓を解釈したり、論語を解釈したりして、いまもって西管学が完全に定着しているとはいえないことは、まことに遺憾なことであります。鶴岡の今後を担う、みなさまがたには、是非このことをご理解いただきたいと思います。

 以前のことですが、今は故人になられた酒井忠治さんたちと、庄内学研究会をやったことがありますが、忠治さんが、庄内学の原典、大本となる記録は、「南洲翁遺訓」だと、なにかに書いてあるのを見て、大賛成だ、と電話したことを覚えています。

 いま我々が読んでいる「庄内論語」には、致道館時代に読んだ「論語」を、酉菅学的に変えているところが幾つかあります。明治時代の鶴岡の赤沢経言という学者が、殿様の忠篤公に「論語」を講じたときの原稿が、後年、「論語稽古」として印刷に付されるとき、菅の高弟、黒崎研堂が書いた後書きに、「西菅二先生の説にあうように改めたところもある」と書いていますが、しかしその「論語稽古」はどうしても徂徠的のように思います。
 とにかく、このような次第で、徂徠学から酉菅学にかえられて、いまの「庄内論語」があるわけですが、不十分な個所も少なからず見うけられます。変えられた部分を少しあげてみます。
 それはまず、「論語」開巻の初頭「学而第一」の首章、庄内論語では「学んで而して之を時習す」と読み、学ぶのは孝悌忠信、時習は毎日、と解しています。学ぶことが、日常茶飯の人間交際の孝悌忠信で、その総称は仁であり、孔子が理想とした仁はいつでも身近かに時習できるわけです。
 この章を徂徠は、「学んで而して時に之を習う」、と読み、学ぶとは、堯舜が作った道、例の政治の四術、礼楽刑政を学ぶ、暇を見てこれに習熟することだとしています。
 述而第七の二十九草、庄内論語では、「子日く、仁遠からん哉、我仁を欲すれば、斯に仁至る」、の章では、仁、これは何人にも天性として賦与されているものですから、発揮しようという志さえあれば、仁は実現されることになります。だから仁は近い哉であります。
 徂徠は「仁は遠い哉」と読んで、その理由を延々と述べています。
 先進第十一篇の四章目、庄内論語では、「子日く、回也我(が)を助くる者に非ざる也。吾言に於いて説ばざる所無し」と読んで、顔回は孔子の青葉を、自分に芽生えようとする、我欲、私欲の心を、助長しない、打ち消してくれる。だから、私のいうことを読んでいるのだ。といって顔回を褒めたとしますが、徂徠は「我」を、「我れ」と読んで、顔回は自分の言葉をすぐに理解して、質問も意見もいわないから、我、自分を進歩させてくれない。と解しています。
 ここの徂徠の読み方を、「庄内論語」のように変えるとき、先にいいました「論語稽古」の著者、赤沢は、「変えるペきだ」という菅の考え方がどうしても理解できない、師弟の間とはいえ、赤沢は菅の考えに承服できない、そんな雰囲気が同書に記されていますが、赤沢は、退いてよくよく考えたすえ、ようやく菅の所論を納得した。と多少の不満を残して書いております。
 顔淵第十二篇の首章、庄内論語では、「顔淵仁を問う、子日く、己を克(よ)くして礼を復めば仁を為す」と読んでいますが、最近、致道博物館から発行された「論語抄小解」では、「克」を勝つ、と読みなおしています。克己復礼です。これは酉菅学に変えた証拠でしょう。「礼」はもちろん、徂徠の四術ではなく、孝悌忠信です。

 荘内藩の重役が、江戸の徂徠にあてた政治向きの質問に、徂徠が丁寧に返事をしたためて送り返した手紙、「答問事」といって、国の重要文化財になっているものがありますが、それに、庄内の重役が、「人の上に立っものとして、最も大切なものは何か」、という趣旨の質問に答えて、徂徠は、「上にたつ者は、下の者にそれだけの威厳を示さなければならない。それには、政治の四術に熟達することである。」というような返事を書いているのを見て、その「答間書」なるものを見たい、と先輩に申し出たところ、あれは私も一度目をとおしたが、誤解を招くと悪いから今は読んではならないことにしている、という返答でした。三○年も前のことです。
 同じように、赤沢の「論者稽古」、これは全部漢文ですから、なかなか読めない。そこで、論語稽古を読む会を提案したことがあるのですが、これも、あまり参考にならないから、止めたほうがいいということで、実現しませんでした。これは二○年も前のことです。ですから、もう徂徠学は問題外であったと思います。
 徂徠学から「酉菅学に一変」と記録されているのは、「臥牛先生遺教」の欄外書で、この本の出版責任者だった、加藤景重という、当時一番の学殖だった人が書いたものです。またこの書の責任者のひとりだった黒崎研堂が、聖人を目標にして学ぶ自分の工夫を、「克己断滅」と書いているのですが、加藤はこれを評して、「言い得て妙」と称賛しています。

 以上縷々、庄内学の原点を申し上げてきましたが、誤っても、徂徠に回帰することがないよう願うばかりであります。菅と西郷の大恩を忘れることなく、これからも永遠に続刊されるであろう、「庄内論語」も、酉菅学を見据えて、改むべきところは大胆に改められたいと願うものであります。
 失礼な点が、先輩故人に対しても多々あったと思いますが、幾重にもお詫びして、以上で私の拙い話を終わります。ご静聴ありがとうございました。

伊藤孝継「南洲翁遺訓」.pdf