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「猶興の士」とは

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『孟子』 安岡 正篤 著より 

「孟子曰く、文王(ぶんのう)を待ちて而(しか)る後に興(おこ)る者は、凡民(ぼんみん)なり。夫(か)の豪傑(ごうけつ)の士(し)の如(ごと)きは、文王なしと雖(いえど)も猶興(なおおこ)る」

 孟子は言う、「周の文王のような聖王の指導を待って初めて感奮興起するのは、凡庸な人民である。かの人並みはずれた豪傑の士などは、文王の指導と教化がなくても、自ら独力で興起するものである」

 この章句は、『孟子』の中でも最も名高い言葉の一つであります。「猶興(ゆうこう)の士」として知られております。文王というのは、指導者、親分、つまりトップリーダーの代名詞であり、文王が来るのを待って、それに引きずられて立ち上がる、つまり偉い人のふんどしで相撲を取る人、誰かが音頭を取らなければ仕事にならないというのでは、これは凡民、世の常の民である。一般大衆である。

「夫の豪傑の士の如きは、文王なしと雖も猶興る」

つまり、本当に優れた人物というものは、文王、指導者がなくたって、率いてくれる者がなくたって、なお興る。この「猶興」という二字は、昔からどれくらい人に賢明を与え、それだけに、どのくらいこの言葉が活用されたか測るべからざるものがあります。今日でも、「猶興会」「猶興社」といた具合に、この二字をとった会合や扁額(へんがく)などがたくさんありますが、すべて『孟子』のこの一句から出ているわけであります。

 見方を変えて、この一句を社会学的、あるいは政治学的に言いますと、「豪傑の士の如き」は、つまり文王なしといえどもなお立ち上がるというのは、これこそ真の自由主義ではないでしょうか。文王を待ってしかる後に興るということは、これはナチズムとかファシズムとかいうもので、日本もまた歴史的に見ると、文王を待って後に興ってきた民族です。良いか悪いかは別問題として、とにかく偉い人に率いられて、そうして事を起こし、事を成して発達してきた民族であります。
 古くは、神武(じんむ)天皇の東征に率いられて大和(やまと)の国を平定し、そこから日本が生まれてきた。氏族というものが勃興(ぼっこう)すると、その氏族に率いられて氏子となり、それがだんだん地方に発展いたしまして、地方豪族がこれを象徴するそれぞれの旗を立てると、その旗頭のもとに旗本となって、いわゆる旗下に馳(は)せ参じて、そしてここに大小名の武門政治が勃興しました。源氏、北条、足利、それから織田、豊臣、徳川というような武門政治の果てに、錦(にしき)の御旗というものを押し立てて明治維新をやった。すなわち、日本民族の歴史は、ずっとこの「文王を待って」興ってきたといっても過言でありません。
 その意味では、国民としては凡民です。日本人が民族としていろいろ優秀たる素質を持っていることは説明するまでもありません。頭も良い、気力もある、いろいろの才能もある。仕事をさせればなかなかできる。思想でも学問でも、やらせれば大したものであります。それは今も変わりありません。
 この間も、話を聞いて非常に嬉しくなったことがあります。過般、自衛隊が初めてアメリカから潜水艦を受け取ることになり、自衛隊から若い者が選抜されて19名とかがアメリカの潜水艦学校に半年ほど入学して訓練教育を受けた。最初のうちは、それこそ米語もわからない。ところが、卒業式に毎年20名ほど優等生が表彰されるのだそうですけれど、その1番から10番までは、ほとんど日本から留学したその若い自衛隊員で占めてしまったそうです。アメリカの教授たちはびっくりしてしまった。日本人はできるのであります。
 今年は経済も異常に伸びて、初めてアメリカに対して日本経済は出超になったそうです。輸入超過が輸出超過になってしまったのですから偉いことです。卑近なところを見ても、日本人の生理機能というのはまた驚くべき才能がある。どこの国に行っても、日本人ほど外国の食べ物、飲み物を自由自在に消化してしまう民族はありません。朝鮮料理、ロシア料理、インド料理、ヨーロッパ料理はもちろんのこと、ウィスキーからブランデー、ラムからウォッカ、もう何から何まで飲んでしまう。どうも不思議な味覚やら胃腸を持っている。外国の民族は、そんなによその国の民族の飲み物や食べ物をガブガブ口にしません。アメリカ人やイギリス人が、日本の刺身や沢庵や味噌汁を舌鼓を打ちながら食べ、日本酒を喜んで飲むなんてことは滅多にあり得ない。ところが日本は、街を歩くともう世界中の食べ物・飲み物が陳列され、またかぶりついている。これは大変な、ある意味の能力であります。
 それから、頭脳もそうです。欧米は、宗教といえばキリスト教。キリスト教以外は、なかなか受け付けません。それから、哲学、文学、芸術も、外国のものになかなか容易になじまない。ところが、日本は昔から古神道などというものは何が何だかわからないので、「無」といったようなものです。あるいは、偉大なプロプリウム(本性)というのか、非常に不思議な、これと限定できない創造力がある。曲学阿世(きょくがくあせい)の進歩的文化人の大多数は、「日本人は文化能力なんかない。哲学も文学もない」と思っている。しかし、私から言えば、この進歩的文化人ほど頭の悪いやつはいない。
 日本人はそんな無能ではない。むしろ、これは恐るべきというか、不可思議なる潜在能力、潜在勢力を持つ民族なのであります。歴史的に見ても、仏教が渡来すれば仏教を究め、儒教が来れば儒教を究め、老荘思想が入ってくればそれに飛び付き、キリスト教がくればキリスト教になじみます。学問でも信仰でも芸術でも、それこそ酒でも料理でも何でも自由自在に取り入れる。もちろん食あたりもあったでしょうが、しかし、この不思議な能力は謙虚に研究すべきであります。
 不思議な能力を持っているのは確かですが、しかし、国民としては「凡民」であります。指導者とか音頭取り、自分を率いてくれる者がいなければ何も決断・断行できない。いくら民主主義だの自由主義だのと言っても、国民に任せておいたのでは何もしません。だからこそ、政治家とか経営者が国民に迎合(げいごう)していたのでは、日本は少しも進歩しません。やはり「猶興の士」が出てこなければ、日本はどうにもならない。そこで、日本の国民に新しい時代を創り、新しい勃興を促す音頭取り、旗頭とはいかなる人物であるか、いかなる条件を要するか、これが今後の日本の政治学、社会学の一番大事な問題になる。今の政治家、政治評論家、ジャーナリストなどは、こういう言葉にもっともっと敏感になってくれなければ困る。そして、そういう「猶興の士」を出す、あるいは出られるような雰囲気を作っていかなければならないと思うのであります。
 しかし、この頃のマスコミを見ていると、この状態からは新しい時代を創る風雲児、先駆者はなかなか出られません。要するに、古典と歴史を学んでいる心ある者が、根気よく耕地整理して、あるいは施肥(せひ)をして、道の教えを興す。誠に寂しい限りではあるが、時を待つ、時を作るよりほかにないのでありましょう。

代表社員 佐藤 健司